sakiko yamaoka


 

エクストラ・センス

 

私は、私のパフォーマンスを「行為と時間と関係性の彫刻」と定義する。わたしは、「人間」のあり方のひとつの例を創る。

 

人間は矛盾した生き物である。にもかかわらず、人は何かを提出するとき、考えを矛盾のないようにひとつにまとめ、2つめ、3つめの感覚を切り捨てる。わたしのパフォーマンスの間、わたしはしばしば、観客(参加者)か、あるいは何か素材を使う。素材は日常に使うもので、なるべく、わたしによってコントロールできない動きをするように準備する。観客(参加者)にもできるだけ、自由な解釈ができる余地を与える。そうすることによって「2つめ、3つめ以上の感覚」がパフォーマンスの中で進行するのを、目撃できると思う。プロセスごと作品を観客に提出し、共犯者として分け合い(シェア)たいのである。それは、順序と秩序と設定が日常にないと言うだけで、日常に起きている鏡のような出来ごとである。そこでは、意識しなかった感情や感覚が対象化されているので、あなたの重たい日常をクスクス笑いの対象することができ、いくらか、あなたの人生を楽にしてあげられるかもしれない。あるいは、意識していなかったことに思い当たって、辛くなるかもしれない。あるいは、何かを発見して楽しくなれるかもしれない。どちらにせよ、これらはアートの企みの中で行われているので、わたしは、それを彫刻と呼ぶ。

 

私は、最近、「シェア」ということをよく考える。それは、最近のインターネットの使い方の代表的なものの1つである。実際は、インターネットの中だけでなく、日常の意識の中で、私たちは、多くのことをシェアしている。わたしは実際の脳もシェアしているのではないかと感じることがある。人生もひとりによって経験することはできないのであるから、それはシェアである。誰かとしばらく一緒にいると、いろいろな意味で影響される。また、人生も次世代に続いている。身体も残念ながら自分ひとりもものではない。保険制度を見ればあきらかだ。ましてやお金は個人のものであろうはずがない。作品の上でも、その考えと方法をもっとラディカルにむしろ意図的に利用し、個人、個性、孤立などという妄想に、挑んでみたいと思う。